
久しぶりの投稿になりました。真夏の日曜日に前々から行きたかったカタルーニャ州リポイ(Ripoll)にあるサンタマリア修道院に行ってきました。バルセロナから余裕で日帰りできます。
バルセロナからはカタルーニャ広場駅かサンツ駅から国鉄の近郊電車(Renfe Rodalies)のR3に乗って2時間くらいでRipoll駅に行くことができます。


Ripollは、ピレネー山脈の裾野の町で、標高682.5m。この日バルセロナ市内は、30度以上の暑さだったのですが、ここは日陰に入れば少し涼しい位(20度を少し上回る程度)です。修道院は、駅から歩いて6〜7分で行くことができ、非常に行きやすいので、余裕のあるかたは、バルセロナ旅行の際に旅程に加えてもいいかもしれません。夏の旅行だったらちょっとした避暑になりますね。
日本ではほとんど知られていないかもしれませんが、この修道院は、カタルーニャの歴史の中で非常に重要な位置を占めています。建立されたのは879年。イベリア半島でのレコンキスタの際のごく初期に作られた修道院です。
修道院全体の建築は、ロマネスク様式の傑作と言われており、外観のバランスは一番上の写真のように、非常に良いと思いました。しかも、1100年代に作られたPortada(ファサード・正面玄関)の装飾は、ほぼ完全な状態で保存されています。

このファサードをくぐって十字型の教会建築の中に入ると、ロマネスク様式としては比較的明るいように感じられましたが、これがイベリアの様式なのかもしれません。そのおかげで中にあるモノはよく見ることができました。
この修道院の建築された当時の歴史を少し振り返りましょう。イスラム教徒のイベリア半島侵入が711年。カタルーニャが支配圏に入ったのが713年。イベリア半島全体がほぼイスラム教支配となったのが8世紀半ば。レコンキスタによりカタルーニャの重要都市であるジローナGironaを、フランク王国が再支配したのが785年ですから、カタルーニャがイスラム圏だったのは70年あまりでしかありません。カタルーニャが、アンダルシアのように800年近くイスラム社会として生きてきた地域とは違う文化となったのは、うなずけます。しかし、この修道院が建築された当時、支配地域は一進一退で、文明的に優れていたイスラム社会に対抗して、再征服した土地にキリスト教徒を植民し支配権を確立するため、この修道院を建築したようです。信仰的軍事的拠点というわけでしょう。そのリーダー、全ヒスパニア辺境領の伯爵は、ギフレ1世GuifréⅠ(「毛むくじゃら伯」と呼ばれていた)。その亡骸を納めた墓が修道院の中に置かれている(下の写真)。この辺の歴史は、カタルニア語Catalàの研究者田澤耕さんの『物語カタルーニャの歴史』(中公新書)に詳しいので、関心をもたれた方は、読まれることをおすすめします。

また、この修道院の中にはカスティーリャ王国との対抗上重要な意味をもち、その後サルデーニャ、シチリア、ナポリ以南のイタリア、アルバニアやギリシアに至るまでの地中海に覇権を築くことにつながったカタルーニャ・アラゴン連合王国を作ることになったラモン・ベランゲ4世Ramon BerengueⅣの碑とその父ラモン・ベランゲ3世Ramon BerengueⅢの埋葬祈念碑(それぞれ下の写真)も置かれている。


ゆっくりと拝観していると、なにやらミサを始めるようだったので、失礼して礼拝堂から外に出てみると回廊式の中庭(Claustre・キオストロ)に出ることが出来た。上下2層式の非常に立派かつ均整のとれた美しいもので素晴らしかった!予想以上。ナポリのサンタキアラ教会のキオストロChiostri di Santa Chiaraはマヨルカ焼きの装飾で有名だが、それと比べると装飾は控えめだが、庭や鐘楼の見えがかりなど、全体の構成上の美しさは、こちらの方が勝ると思う。下層は石の廊下、上層は杢の廊下となっていてそれぞれ美しい。アマルフィ大聖堂の天国の回廊Il Chiostro del ParadisoのようにアーケードPorticoを支える柱は二重式のものでした。

回廊に出て見ていると、鐘楼から鐘の音が。バルセロナに住んでいると、ほとんど教会の鐘の音は聞くことがないが、やはり和むねえ。この音は。
バカンスシーズンの日曜日なので、お決まりのレストランなどの報告はできませんが、それでも十分休日を満喫できるショートトリップでした。
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